昭和44年05月08日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 一段一段進んで行くのじゃと。にわかに先生にはなれぬと。一段一段進んで行くという事はどういう事であろうかと、具体的に言うたら。それは段々信心を十年、二十年と続けて参りますと、信心が巧者にやはりなります。巧者になるという事は有り難い事ですよね。道の、お道の信心の内容と言うかすべての点に所謂詳しくなります。しかし詳しくなる事と一段一段進んで行くというのとは、私は違うと思うんです。
 一段一段進んで行くのじゃと、にわかに先生にはなれんぞと。人より我がなおよけれという程度が、神信心をしても我が身の上におかげを受けてとあります。ね、わが身の上におかげを受けてという事は、どういう事であろうか。後に人を助けて、その後に人を助けてやれと仰るが、わが身の上にまああらゆる難儀から開放されるというね。身に徳を受けて、家庭が円満健康である。
 経済の面にもおかげを受けて誰が見ても成程金光様の信心しござりゃ、ああいうおかげを受けられると言った様な手本を持って人を導かせて貰うたり、助けさせて貰うという事は、お互い是は一つの理想で御座いますから、それに向かって進んで行かなければならんけれどね。でなからなければ人が助けられんという事はない。わが身の上におかげを受けてという内容はどういう事かと言うと一段一段進んで行くのじゃというね。
 まあ例えて申しますと、入信の時には先ず願いからほとんどの人が始まっております。神様になっとんお願いしようという事から始まります。ね、神様におすがりしようという事から信心が始まります。おかげを受けてだんだん有り難くならせて頂いて、教えを頂けば頂くほど分からせて頂くのが自分自身ですね、自分自身。ですからお願いする事を知っておってもです、その次に自分を知らなすぎる人、自分を知らない人、自分を本気で見極めようとしない人。
 私は一段一段進んでおらんと思うです、何十年信心したっちゃ。高橋正雄先生の有名なお言葉じゃないですけれど。見ること見ること、自分を見ることと言うておられます。見ることは人の事じゃない、自分自身なんだ。人じゃないんだ。自分自身を見る事なんだ。と言うようにですね、信心が一段そこへ進んで行かなければいけん。願いの信心から始まって、そしておかげを受けて、神様が有り難いという事が分かると同時に、教えが有り難いと分かって来る。ね、
 道に生かされておる事が有り難くなって来る。そこで道を極めより極めさせて頂こう、より自分が分からせて頂くという事に、焦点が置かれるようになる、ね。そこから私は願いの信心から、所謂お詫びの信心が本当に出来てくるように。自分というものが分かれば分かるほど。何十年、信心しておっても、自分というものを、自分というものを見ようとしない信心であるならば、それは本当おかしい。
 一段と進んでいない証拠である、進んどるでしょうか。自分を本当に見極め、自分というものをついきゅうして参りますとですね、第一不平不足がなくなりますよね。ですからはあ、もう詫びはもうお礼とお詫びばかり言い、申しよりますという人がありますけれども。本当にお詫びを、本当にお詫びをする信心というのはね、悪いことをしてから済みませんというのとは違う。
 お詫びの信心と言えば、いよいよ自分というものが分かるから、ね、自分というものが分かっ、自分のいわゆる実際の姿というものが分かるから詫びるのである。ですから、人の事なんか目につくはずがない。どのような例えば難儀な問題であってもです、詫びておる姿勢の上にはです、不平不足になって来ないと。というようなですね、私は信心。これ一番一段、第一段階であるところの願いという信心においてもやはり、その願いの中には段階がたくさんあると思うんですよ。
 ただ、わが、困った時だけ願いに来ると、お願いする事だけがその、信心だと思っておる時代がありますね。ね、これだけの事を願うのであるから、このくらいな修行は当然だ、当たり前だとして修行に打ち込むという時代、願うという事は。ただお願いをする、お取次ぎを願うというだけから、ね、これほどしの事を願うておるのであるから、こんな御無理を願っておるのであるから、例えば修行はいといませんと言うような、願いに一つの迫力と言うかね。
 生き生きとした願いが出来るようになり、そこから段々、教えを頂けば頂くほど自分自身が分かるようになり、そこには不平のない、不足のない信心生活が営まれるようになる。ね、そこから、だからお詫びならお詫び、願い願いと言うても、そのお詫びの中にも大変な段階があるんですよ。例えば御神意に背く、なら悪い事してと言うて相すいませんと言う、やっぱこれも詫びなんですよね。
 そういうお詫びからです、自分自身を極めて行くところから生まれて来るところのお詫び、お詫びをするという信心。そこにも大変な段階が、その段階を経て行くのです。そして、お礼の信心。ね、私ここんところで、わが身の上におかげを受けてと言うのは、やっぱり何と言うてもお礼の言えれる信心だと思うですね。これは病気が治りましたと。または経済の上にも不自由せんようになりましたと。
 家庭が円満になりましたと、言うようなところからしかお礼が出らんというようなお礼じゃ、ほんなお礼じゃないです。ね、現在はまだいわば病身であっても、ね、金銭の難儀はしておっても、人間関係の上に難儀な問題を持っておりましても、私は心からお礼の言えれる信心があると思う、ね。そういう御礼のいわば信心がです、出けて来るようになる。勿論今申しますように、ね。
 思えば思うほど、もう全ての点の上にこのようなおかげを頂いてと。というほどしのおかげを受けて行かなければならん事。同時にその事のお礼を申しても、お礼を申しても、お礼が言い尽くせんというほどしの、お礼の心という。これはまた、私共の願いとするところなのですけれども。そういうおかげを頂かなければお礼心が出ないと言うのではない。信心が分かれば、分かるほど、おかげを受けておる事がいよいよ、広深く分かって来るね。そのお礼心がです、形に現れてくる。奉仕の姿に現れてくる。
 その御礼の心が、いわば奉仕の姿に現れる。所謂後に人を助けて、わが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれと仰る。これは人を助けてやれという事は、人を人のお導きをするという事だけじゃないと思うんですよね。そういう、例えば社会に奉仕をするというような事は、そのまま、また人が助かるという事に繋がっておる事ですから、様々な皆さんが御用奉仕をなさいます。
 その御用奉仕は結局は人が助かる事に繋がっておる事なんですよ。一人一人の助かりという事よりもむしろ、沢山の人が助かる事の為に奉仕をしておるんですよね、人が助かるという人を助けてやれって。それには矢張りお礼心がその様な形に現れて来ると。そこで例えば只今申しますように、信心も手習いも同じ事一段一段進んで行くのぞと。というところを、今日は私はまずは願いから入って、次に二段階。ね、
 自分自身がいよいよ分かって来る。そこには不平不足のない生活が明るい実意丁寧な生活がそこにある訳です。ね、それから先にお礼の生活お礼の信心、ね。所謂神恩報謝の生活。神恩報謝と簡単に言うけれども神恩報謝の生活という事には、もちろんね不平不足があろうハズもない。ね、本当言うたら願いすらも無くなるでしょうね。ただあるものは、願わんでも、頼まんでも現れて来る所のおかげがあるのみなんです。
 ですから、そこにはですね、いわば御礼の信心が当然生まれて来る訳です。御礼の信心が出来る。その御礼の信心とは、御礼のお礼心が様々な形に現れて来る奉仕だという風に申しましたですね。ですからやはりにわかには先生になれない事が分かります。願いお詫び御礼と言う様な事の内容。その御礼なら御礼にでも、大変な段階がある。もちろん、お詫びにも、願いにも段階がある。
 そういう段階を経て一段一段上がっていく。まあこういう風に申しますとですね、こう、願いとお礼とお詫びと言うのが、こう切り離されたようにお話を致しましたけれども、それは、まあ話のし良いように申しましたんですけども。実際はその三つが私共の場合は、実際はあるんだと思います。けれども段々おかげを頂いて、最近は御礼が一番強いという事になって来るです。ね、
 例えば甘木の初代が、お礼とうの信心があるとするら、その内の八つはお礼だと仰るくらいだったんですね。お礼が八分と仰った。だからこのその本当にお礼が八分というほどしの信心が出けるという事は、もう大変な事だと実は思います。まあそれを申しますと願いの修行を経てですね、願う。この様な事を願っこの様な事を願っておるのであるから、このくらいな修行は当たり前と、もう修行が平気になってくる。
 難儀が難儀になって来ない。修行として、合掌が受けられるという生き生きした信心、願いと。そこを経て、段々分かって来るのが自分自身なんです。ね、そこからお詫びが始まる。見ること見ること、自分を見ること、という信心が入って、そこにはもう、今度は不平不足のない生活がある。自分を見ると言い、自分を本当に見極めさせてもろうたらです、不平不足、出ようのないほどしの事になって来る。
 そこから御礼の言えれる信心。そして、せんじつめますとですたい、願わせて頂いておる事も、お詫びをさせて頂いておる事も、その願わなければならない、その事柄。ね、お詫びをしておるところの実際の姿と、いうようなものが分からせて頂く。例えて言うとです、そこに一つの難儀がある。難儀というものは、それはやはり痛い事であったり、歯痒い事であったりする訳でしょうけれども、その痛いけれども、歯痒いけれども、いわば有り難いというお礼なんです。
 ですから、ここには財産が出けなければ、健康にならなければっていう事はない訳ですね、お礼ということ。このような信心を分からせて頂いて行く。ね、同時に分からせて頂けば頂くほど、私共が天地のお恵みの中に浴しておるということ。それが段々、天地のお恵みという事だけではなくてです、ね。すべてが神愛、ね、神愛の中に私共があるという事が分かって来る。
 そして難儀と感じておったその事も神愛の現れだと分かって来る。だからですそれが本当に分かって来る事になってくるからです、もうどんなにお礼を申し上げても、お礼を申し上げても足りんほどに、お礼が次から次へと湧いてくる。いわゆる、御礼八分どころか、もう御礼だけで終わるというような事にまでなって来る訳です。そこでこれほどしの御礼を申し上げなければならんほどしのおかげを受けておる自分ですから、そのお礼の印が形になって現れて来る。御礼の発露なんです、ね。
 その御礼の発露が様々な御用になって現れて来る、奉仕になって現れて来る。私は今日、手習いも同じ事だ、ね、信心は。一段一段進んで行くのじゃというのは、そういう事だと思うのです私共の現在の信心が、ね、どのような所にあるだろうかと願いが中心であろうか願いがその濃厚である。またはもうお詫びに徹しておるという時もありましょう。ね、神様に通うという事はねこれは願いでもお詫びにでも、お礼でも同じなんです。一生懸命願や、一生を立てて一生懸命願や、神様に通じる。
 一生懸命お詫びをさせて頂きゃです、詫びて、詫びて、詫び抜くところからです、ね、お詫びが適う、詫びが許される。詫びておる事が許される、その時はもう神様と通うた時なんです、ね。御礼を申し上げる、その御礼の喜びが神様に感応する。神様に通うた時なんです。だから、神様に通うという事においてはね、どこから入ってもいいんです。けれども私共の、その信心の位置、段階というものがです・
 一段一段進んで行くという仰っておられる、一段一段進んで行くというのはです、段々段々なら願いが影をひそめる、ね。詫びると詫びておったその事も実はお礼を申し上げる事であったと気が付かせてもらう。そこに御礼御礼ばかりで一切が、ね。願わんでも頼まんでもこのようなおかげがというようなおかげに展開して来ると、という風に今日はその聞いてもらいました。
 われより人よりわれがなおよけれと言うておるが、神信心をしてもわが身の上におかげを受けて後に人を助けてやれと。という事はどういう段階にあってもわが身の上におかげを受けるという事がもう、とにかく自分がいっちょおかげば頂かにゃ、人にも話されない、と言った様な事がない事が分かります。病人、ね、病気をしておる者がまだ自分の病気がようならなきゃ人に話されん、と言う様な事はない事が分かります。
 信心ていうのはそういうもんだと私は思う。同時に、信心を一段一段進めて行ってです、ね。やはり最高の信心と、まあ私は現在のところでは思われるお礼の信心と言うのがです、ね。いわゆる御礼が中心である、いわばお礼が八分というような信心。昨日、北九州の少年少女会の幹部ですかね、委員の先生方が昨日、一昨日から昨日にかけて丸一日間、ここでその教義をなさいました。
 今年が百十年というお年柄に当たっておりますから、九州の少年少女会の上にも、まあ色んな御用、または色んな行事がいくつもございます。そのことの、まあ話し合いがあった、私は参加しませんから知りませんけれども、やりましたが。私その、本当に最近は皆がその、合楽合楽と言うてその、まあ合楽にそういうひとつ場を求めて見えるという事は本当に有り難い事だと、こう思うのです。
 まあ普通人間心使えや、馬鹿らしか話。先生方のおまかないが、一食百円です。ね、それ一食百円のまかないを出来ん事はなかろうけれどもです。別にあれ買うたりなんをしてからそこじゃない、家の神様のお下がりを頂くのであるから。やはり三度三度のお食事の上にでも、幾人もの方達が奉仕をされまして、そして真心込めてのお料理を、献立を作って、それを、まあ頂いてもらった訳でございますが。
 これは丸きり一流割烹の料理ですよち。前の日は見事な鯛のお供えを頂いておりましたから、鯛がふんだんに使われたお料理でした。昨日は、川の物を中心にしたお料理でした。もう本当にあの、まあお神酒はもう最高のお神酒が、まあ頂いてもらえて。まあ本当に、どっか料亭か何かで会合しよりなさるごたる感じでございます。が出来るという事は有り難いと私は思うですね。
 昨日も、4時の御祈念を終わってから下がりました。で、あそこにカステラが切ってありました。で、私も一切れよばれましたが、そのカステラを切って豊美が持って来ましてから。こういうね、贅沢な物を頂く時にはね、もう最高に贅沢な物として頂かにゃいけんよと。ね、第一、器を考えなさいて。ああ、ちっとお前は、十円か二十円のお菓子を食ぶるごたる事ではいけん。
 これだけのお前、そこに長崎カステラでしたが。だから、器をまず考えなさい。これに相応しい。そして今家には、はちみつを沢山頂いておるからね、はちみつかけなさい。そげなこつ、ところが、これはもうね。もうそれこそ食通の人達が研究に研究をして最高の食べ方っていうのが、何の食べ物にでもある訳です。皆さん、カステラっていうのは美味しいもんですよ。けれどもそれをより美味しくする為にね。蜂蜜を少しかけてご覧なさいまた最高です。そすと楊枝も替えてこい。
 そういうですね、あの最高の物を頂く時には最高の事が出来ることの、これが信心がないなら知りませんよ。それは贅沢になりましょうけれども、信心があるのでございますから。それがもういよいよ、百有り難いのは二百も三百も有り難くなって来るんですよ。やはり工夫です。それをまず見ておって、まあ何とおかげを頂いた事じゃろうかと。器を見ても、そのカステラを見ても、上にかけられておる蜂蜜を見ても、そこに出してある楊枝一つを見せて頂いてもです、本当に有り難い。
 もうその有り難いというその味わいと、カステラの美味しいとい味わいとが二つになって、本当に涙ながらに頂くように有り難い。だからその有り難い。例えば詫びるでも願うでもですね、矢張り一つの段階ていうものが、その中に沢山あるという様にですね。例えばその事などは、私は最高の御礼の言えれるこれだけの人が、ね。もうそれこそ金銭、前金は構いなしで、例えばおご馳走を作ると言うのじゃない。
 ただそれがそうせなくても、家で出けておる、出来るという事。ね、そらもう合楽であんまりサービスの良かけんで、まあ皆が合楽合楽ち言うてから来るていというような人もありますけども、それでいいと思うんです。ね、お役に立つ事で。いわゆるそのお礼の心が、奉仕に現れ、なって来るのですから。ですから只今、私が申しました、その三つの段階といったようなものもです、私共の信心が一向進んではない。
 まだいわばお願いばお願いだけの信心が、10年も20年も続いておるとするなら、これは大変な事ですから。なるほどこれでは人を助けてやれと仰る、人を助かる事の働きになって来ないということ、ね。ですからその段階を自分で一つ見極めさせてもらって、自分の信心の程度の低さというものを分からせてもろうて、次の信心の手がかりをそこから頂いて行かなければいけないという事を、今日は聞いて頂いたんですよね。
   どうぞ。